その昔、手代木ユリというフォトグラファーがいた。
などといったところで、あなたがご存じのはずもない。
そもそも彼女の「フォトグラファー」は自称であり、
写真で金をもらったこともないではなかったようだが、それで食えてはいなかった。
90年代のはじめ、ユリはニューヨークに渡った。
そろそろ30歳になろうというころだ。
そこに住んで写真を撮りたいというのが、動機のすべてだった。
約束された仕事などないのはもちろん、学校に入るとか、だれか知己を頼るとかいうわけでもなかった。
両親はむろん強硬に反対したが、文字通り何かに憑かれたように彼女は、軽々と海を越えた。
そしてほぼ3年後、まさに忽然として再び日本に現れ、半年後、死んだ。
ニューヨークの裏通りを漂った日々、ユリが何に喜び何に悲しみ、どんな風に吹かれたのかはわからない。
確実にいえるのは、写真を撮ったということ。それだけだ。
ユリが好んで撮ったのは、人である。
人の写っていない単なる風景写真など、あっただろうか。
上手なのかそうでもないのかは、よくわからない。
絵としてどうなのか、などと芸術的な見地からあれこれいうことも、私にはできない。
ユリの死後、銀座のたいそうなギャラリーで遺作展を開くことになった。
そのとき、そこの担当者がなんとなく尖った口調で、
この方の写真はフォーカスのポイントがおかしい、というようなことをいったのを覚えている。
米国由来の大フィルム会社が運営するギャラリーの、現場責任者?のような立場の人なのだから、
たぶん写真術にも写真の芸術性といったようなことにも、一家言あるのだろう。
その人が、
「この写真は手前の人物にピントを合わせるべきなのに、バックの海に合っている、よってヘンだ」という。
ならば実際にヘンなのだろうと思いながらも、私は首をひねったものだった。
そうまで自信満々に「べき」を連発するような場合なのか、芸術ってものはそこまで四角四面で不自由なのか……?
おっと、私のほうこそ、今ごろ鬼の首でも取ったようにこんなことを持ち出さなくていいのだった。
あの場合、ヘンなのは明らかにそのギャラリーの人だ。
写真なんてものは見た人がいいと思ったならいいに決まっているのであって、
「いい写真のルール」を押しつけるなど、少なくとも素人にとってはおせっかい以外の何物でもない。
そういうことはともかく---。
あくまで絵心のない私にとって重要なのは、ユリの向き合った被写体たちが何者なのか、だ。
ミュージシャンやモデル、そのへんの子ども、青年、ねえちゃん、年寄り。
多くは袖すり合ったくらいの関係だろうけれど、どういうはずみで袖すり合うことになったのか。
そして彼らの視線だ。
開けっぴろげに笑う人。取り繕うようにはにかむ人。
ことさら視線を外しながら意識はしっかりカメラに向けている人。
無邪気で挑戦的で、強くて柔らかで、饒舌でいて静かな……彼らの視線はことごとくが、ファインダーのこちら側を映している。
かの世界の場末にユリが刻んだ人生最後の足跡を、そこから読み解けるのではないか。
……などと、あれから20年も過ぎようという今ごろほざいている。 あの世の彼女はもとより、お世話になった方々にどう顔向けしていいものやらわからない。
何よりの罪はあのとき作った写真集を、なお何冊も押し入れに眠らせたまま、手をこまねいていることだ。 デザインをノーギャラで引き受けてくださった江尻敏博さんにも、 あれこれとご尽力いただいた佐々木英豊さんにも、伏してお詫び申し上げなければと思う。
最後に、ひとりでも多くの方が写真集「Once in a Purple Moon」を手に取ってくださることを、ここに祈りつつ。 手代木ユリの弟、手代木建。 2013年1月